財経詳報(2003年8月25日)特別論考

経済発展、社会公正と福祉の向上を目指して

国際経済政策研究会代表

経済協力開発機構( OECD) 元 副事務総長

重原 久美春
 不況の長期化と企業のリストラに伴う中高年層の失職や離職、若年層の非労働力化、職業上の理由による自殺の増大などの社会問題は今後どうなるのか。日本経済の更なる発展のために市場競争と実績主義による経済効率の向上が重視される一方で、所得格差を拡大し、社会の連帯感が弱まり、国民の生活不安が募ることを懸念する声も強い。一体、市場経済原理の尊重により経済力を強化すると共に、国民全般に亘る福祉の向上を図るためには、どのような取り組みが必要なのだろうか。
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国家目的としての社会保障・福祉
 

 日本における社会保障・福祉は、第二次世界大戦後に制定された新憲法(第25条)のなかで初めて国家の責務と明定された。 大戦直後は戦傷者、引揚げ者、戦災孤児や失業者などへの救貧対策が中心であったが、1950年に社会保障制度審議会が発表した 「社会保障制度に関する勧告」によって社会保障という概念が規定された。この勧告には、イギリスにおいて社会保障制度の確立 のため42年に取りまとめられたベバリッジ報告が大きな影響を与えた。61年には医療保健と年金保険に関して「国民皆保険」 の礎が確立され、83年には高齢化社会の到来に備えて老人保険が、そして2000年には介護保険が、付け加えられた。

 こうした幅広い分野に亘る社会保障制度の充実と共に、日本においても欧米先進工業国におけると同様、社会保障関連の財政負担 が大幅な増加傾向を辿ってきた。経済協力開発機構( OECD)統計によれば、公的社会保障関連支出の国内総生産(GDP)に対す る比率は、1970年以降約30年の間に、加盟国平均で約10%ポイントもの大幅な上昇をみている。日本の対GDP比率は70 年時点では約5%と、欧州連合(EU)諸国平均(15%強)やアメリカ(10%強)をかなり下回っていたが、その後は急激に上 昇し、98年(国際比較が可能な最近年)にはEU諸国平均(約25%)に比べれば依然として低いものの、アメリカ(15%強) とほぼ同じ水準にまで上昇した。

 この間、多くの先進工業国において、財政赤字の拡大から国債に対する市場の信認が弱まった。こうして財政節度の回復を迫られる なかで、増大する社会保障支出の歯止めをかける必要性が論議されるようになった。また、各国国民の平均的な経済生活水準を 「購買力平価で計測した一人当たり実質 GDP」というおおまかな指標で捉えると、第二次大戦後の復興期を経て80年代末頃までは、 社会保障制度の進んだ欧州諸国や日本がアメリカとの格差を縮める傾向にあったが、90年代に入って格差が再び拡大に転じるようになり、 これを基本的な背景として、社会保障制度と経済成長との関係が論議を呼ぶようになった。特に欧州諸国においては、 構造要因による失業の高止まりが続くなかで、失業保健や最低賃金など労働市場に関連した社会保障制度のマクロ経済効果が 注目されるようになった。
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社会公正の観点
 

 他方、アメリカでは、90年代後半に高成長に伴い雇用の増大と失業率の目覚ましい低下がみられたにもかかわらず、高所得層と 低所得層との間で所得格差の拡大傾向が改まらず、これが社会公正の観点から問題として取り上げられた。所得格差の拡大傾向は、欧州においても多く の国で90年代に入って看取され、その原因と対応のあり方が論議の的になった。ウルグアイ貿易自由化交渉のさなかにあった当時、 EU市場統合や北米 自由貿易協定などに伴う域内競争の激化のほか、旧社会主義国の市場経済移行、東アジア諸国の輸出攻勢も加わり、地球儀的規模での諸国間の貿易・投資・ 技術移転などによる経済統合(いわゆるグローバリゼーション)が、先進工業国全体における所得格差拡大の構造要因として働いているという見方が 保護貿易主義者を勢いづかせた。彼等は、新興工業国や開発途上国から安値製品の輸入が増大すると共に、これら諸国へ先進国企業が生産拠点を移転した 結果、高い技能を要しない職種に従事している先進国の被雇用者が失職し、あるいは賃金の引き下げを迫られ、比較的高度の技能を持つ人達との間で 賃金格差が拡大している、という見解を多いに利用した。

 我が国においても、近年、構造改革や金融機関の不良債権の処理など、国内における政策ないし市場要因で生ずる非効率企業の市場退出や 不採算部門の縮小に伴う失職や賃金削減に加え、海外要因、特に中国からの安価で且つ日本の消費者の好みを満足させることの出来る製品の 大量流入に伴い、競合品を作っている国内企業で賃金を含む生産コストの引下げや事業の閉鎖を迫られる懸念が強まっている。

 賃金など市場で決定される所得について生ずる格差を是正するため、日本を含む先進工業国は特に第二次世界大戦後、社会保障の充実に努めたほか、 累進所得税率の引き上げや低所得層に対する税控除など、政府による所得の再配分機能を強めてきた。もっとも80年代に入ると、 アメリカではレーガン政権の税制改革によって所得再配分機能が弱められ、またイギリスや日本などでも累進税率を単純化ないし平準化する改革があった。 ただしアメリカでは、90年代にクリントン政権の下で社会公正を図る視点から、最低賃金が若干ながら引き上げられた。