国際公僕のすすめ

経済開発協力機構(OECD)前副事務総長
重原 久美春

OECD東京センター・ニュースレター2002年6月号
「これまで日本は国際機関に対して、最も優秀な官僚を送り出すよりも、多額の資金を拠出することのほうが得意であった。それだけに、重原久美春が次期の経済協力開発機構(OECD)経済総局長・チーフエコノミストとしてどのような仕事振りをするかには異例の関心が寄せられよう。これまで、OECD経済総局長のポストは、英国人あるいは北米出身者に限られていた。
 重原久美春は、現在、金融研究所という日本銀行のシンクタンクの所長の任にあるが、これまで三度に亘ってOECDに勤務した経験があり、最近では1987年から1989年にかけて、その政策調査局長を務めていた。
 重原は背が高く、学者のような風貌の持ち主で、海外では、日本銀行の金融政策運営は厳格かつ自律的であるべきであり、過度にアメリカ寄りであってはならない、と主張していることで知られている。彼は、常々、日本経済においては規制緩和を更に推進する必要があると主張しており、新しいポストに就いてもそうした立場を変える積もりはない、と強調している。
 英語が堪能な重原は、自己主張が出来ると共に、豊かな国際感覚を持ち、自らの思うところを恐れず発言する新しいタイプの日本人の典型と云われている。
彼が新しいポストでもそういう仕事振りならば、今回の指名は歓迎すべきものだろう。」
今から丁度10年前の英国フィナンシャル・タイムズ紙に「日本の出番」と題して掲載された、この記事には、英国国民の複雑な気持ちが窺われる。OECDは先進工業国のみを加盟国(現在30ケ国)とする国際機関であり、ここに集う各国政府は、事務局専門スタッフによる精緻な研究分析に基づき、広範な経済・社会政策について議論や政策調整を行っている。OECDの活動の焦点は、事務局の政策ペーパーを基に各国政府代表間の意見交換と相互レビューを通じて、加盟国が出来るだけ高いレベルでの持続可能な経済成長と雇用、更には、生活水準の向上を達成するため、よりよい政策の遂行に寄与することにある。こうした目的で設立されたOECDに対する英国の戦略は、長らく、その要であるチーフエコノミストのポストに英国人を送ることだった。私の指名はこの戦略の終わりを意味していた。
 
この記事には触れられていないのだが、私の前任者は全て外部から登用された政治任命であった。私の就任で初めていわば生え抜きの総局長・チーフエコノミストの誕生となった。OECDギネス・ブック入り、と言われる所以である。私はOECDに都合4回に亘って勤務したことは同紙に言及されているが、1970年代始めの約5年間の第1度目の勤務では、OECDの最有力部門である経済総局の金融調査課において、平のエコノミストから始まって課長補佐、そして日本人として初めてOECDの課長を勤めた。その後も「日本人として初めて」と報道された第2回の勤務での政策調査局次長就任、そして第3回目で政策調査局長、第4回目で経済総局長となり、全ての階段を登りつめることとなった。
 
総局長を5年間勤めた後、副総長に就任した。イタリア中央銀行の調査局長が私の後任になった。クリントン政権下OECDの会議におけるアメリカ政府代表者として仕事を一緒にすることが何度もあったサマーズ財務副長官(後に財務長官)が私の後任に言った。「クミの後任とは大変な重責だね(You have to fill Kumi's big shoes)。」クミとは、言うまでもなく私の愛称である。経済総局長としての私の足跡が大きかったという含意もあるこの言葉が、国際経済政策協力のあり方について私と意見がしばしば対立したサマーズ氏の口から私の面前で発せられたのは、意外であり、また嬉しかった。
 
日本の新聞が書き立てた。日本人を私の後任に押し込めなかったのは日本政府が弱腰なためだ、というのが主旨であった。これは全く筋違いであった。パリに本部のあるOECDの公用語は英語とフランス語であり、幹部は両国語に長けていなければならないことも含めて、資格要件のバーが高い。欧州の最強国であるドイツ、そしてフランスも経済総局の最高幹部ポストを取るべく、私の在任中何度も政治的な圧力をかけて来たことがあるが、未だに成功していない。
 
OECDの職員は外交特権を持った国際公務員という職業の範疇に属している。だが、私は「公務員」という言葉はあまり好きではない。「役人」、「官僚」、「官吏」といった、何だか江戸時代か明治時代の官尊民卑の響きのする表現よりは確かにマシだ。公式の文書には馴染まないのかもしれないが、「公僕」のほうが納税者に対する僕(しもべ)という感じが出てもっと良い。しかしながら、これも英語の“civil servant”という感じを伝えるものではない。私はOECD職員(official)であった時、英語圏で自分の職業を聞かれると、「自分は“international civil servant”である」という答え方をした。日本語では「国際公僕」としか訳せないのかもしれないが、どうもピッタリしない。英語と共にOECDの公用語であるフランス語にも英語のこの表現に該当するものはない。“Fonctionnaire international”という表現は日本語の「国際公務員」に近いようだ。私はスタッフに「我々はOECD加盟諸国納税者の僕(しもべ)としての意識で働かなければならない」と繰り返し訴えたものだ。
 
私の職業生活は日本銀行員という日本人のための公僕として始まり、OECD職員という国際公僕で終えた。前者の勤務期間が20年、後者が17年だった。幸運であった。海外任務を終え、先祖の墓参のため前橋市を訪れた際、広瀬川縁の萩原朔太郎文学館を訪れた。その時、「旅上」と題する詩のなかで、
 「ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままなる旅にいでてみん」(純情小曲集)
と歌った、母校前橋高校(旧制前橋中学の後身)の先輩である朔太郎を思い、フランス留学に加えて4度のOECDパリ本部勤務を併せ5回、合計18年に亘って彼の国に住んだことは幸せなことであった、としみじみ感じた。来訪者名簿にフランスに残した小さなアパートの住所を書き添えて記帳し、記念館を辞した。
 
OECD勤務を通じ、フランス人はもとより、OECD加盟諸国から集まった職員と夫婦単位での交際を通じ、友の輪が大きく拡がった。OECDを去っても、妻を含めて、こうした国際的な友情に基づく交流を続けており、これが私の生き様を豊なものにして呉れている。21世紀に入って、国際機関で雄飛する日本人が多数輩出することを期待している。